2025年度 第1回連続講座を6月25日(水)に開催いたしました。


講師 吉田 文男(よしだ ふみお)さん(熊本県人権教育研究協議会 顧問)
演題 「来民(くたみ)開拓団の「真相」に学ぶ -差別は誰の問題か-」
講演内容は、太平洋戦争(日中戦争)中に国策として行われた「満州」への大量入植計画(いわゆる「満州」移民)で、史上例のない非業な最期を遂げた熊本の来民開拓団の悲劇を中心に、「部落差別」は決して過去の話ではなく、今、現在にも厳然と残る大きな社会問題であることを伝えていただきました。
来民開拓団は、1人を除いて開拓団にいた276名全員が集団自決に追い込まれて全滅した開拓団だということから「戦争の犠牲」、「国策の犠牲」ということで反戦、平和の象徴とされてきました。しかし、その真相は別にあり、来民開拓団以外の熊本県の開拓団は、当時の農林省と拓務省(日本の植民地統治や海外移民事務などを所管した官庁)による「分村移民」政策による「満州」移民事業で編成された開拓団だったのに対し、来民開拓団は融和事業で編成された開拓団でした。すなわち、部落問題を解決するための教育や事業を推進する中央融和事業協会が関わっていた開拓団で、「部落を『満州』に移せば部落問題も解決するし、国策にも合致する。まさに一石二鳥の政策だ」ということで編成されました。これは、言い換えれば、部落があるから差別がある。部落問題を解決するためには、部落をなくせばいいということになり、差別問題の原因を被差別部落にあるとする「部落責任論」となります。戦後もずっと隠され続けてきたこの間違った考え方や政策が、開拓団全滅後44年たち、その真相として明らかにされたということでした。
吉田さんは、講演の中で、今も部落差別が無くなっていないのには、大きな理由が2つあると話されました。その一つは、「学校で教科書を使って間違った部落の歴史や捉え方を30年近くも教えてきたこと」。すなわち、江戸時代の身分制度の学習の中で、「士農工商」というピラミッド型の身分制度だったと教えていたこと(被差別身分の人たちが、その下の身分であるという間違ったとらえ方)。実際には、こんな事実はなく、間違っていることが研究の結果明らかになり、2000(平成12)年から教科書の記述から消えました。明治維新の「四民平等」という意味も改められました。しかし、教科書が変わったからといって、問題が解決したことにはならない。間違った教科書で、間違ったことを教えられてきた人たちの意識や認識が変わらなければ、差別は拡散・再生産されてしまうという事実があるということでした。
もう一つは、「間違った部落問題認識が払拭されていないこと」。確かに、1965年に出された「同和対策審議会」答申に『同和問題の早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題であるとの認識に立って…』と明示はされ、部落差別の捉え方が大きく変わったように思えました。また、答申に基づき、「同和対策事業特別措置法」も制定され、同和地区の環境改善および部落差別の解消に向かった取り組みは推進され一定の成果はあげられました。しかし、その答申の「同和問題の本質」として記述された中に、『いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造 ~略~ すなわち、同和問題は、日本民族、日本国民のなかの身分的差別をうける少数集団の問題である』とあります。「身分的差別をうける少数集団」とは、被差別部落のことを指し、すなわち、「同和問題は、部落の問題である」と捉え、部落差別は部落の人たちの問題なんだというような誤った見方や捉え方から抜け出せていないこと。結局、差別問題が部落差別だけでなく、ハンセン病差別、障がい者差別など他の差別、また、いじめ問題も全部、対象者、差別被害者の問題にしてしまっている現実。これらが今でも部落差別を温存助長させている社会の大きな問題だということでした。
「どんな形ででもいいから、来民開拓団の真相を世に問いたい」という地域の願いが実現し「燃えさかる炎 来民開拓団」という構成詩劇(解放劇)という取り組みとなりました。しかし、開拓団の関係者の中には、このことが世に知られれば、今は幸せに暮らしている家族が、また、差別にあうという不安で夜も寝られないほど苦しんだという方がおられるということも話されました。まさに、「来民開拓団は決して過去の話ではなく,今の問題」なんです。部落差別は現代も生きています。
そこで、幾度も演じられた解放劇の取り組みの中で、一番大事にされたのが人と人とのきずなを結ぶということでした。差別は部落差別に限らず、あらゆる差別が人と人とのきずなを断ち切ります。それが差別です。ですから、差別と闘うというのは、断ち切られたきずなを結ぶということです。
最後に、私たちは「差別の現実に深く学ぶ」ことを最も大事にしてきました。しかし、その「差別の現実」は、「被差別の現実」ではなかったのか、「差別」の現実に学ぶといいながら、「被差別」の現実に焦点をあて、「部落はなぜ差別されるのか」、その原因や理由をひたすら求め続けてきたのではないかと思います。被差別の現実に焦点をあてればあてるほど、差別の厳しさや悲惨さ、深刻さのみが強調され、「差別は被差別の側の問題」だと伝えることになってしまい、その結果、「かわいそう」とか、「差別はいけない」、「私は差別をしない」などと、他人事としてとらえてしまう子どもたちを育ててしまうことになります。差別は決して対象者(差別被害者)の問題ではありません。差別する側の問題です。差別を自分のこととしてとらえさせなければ、差別はいつまでたってもなくなりません。そのためには、差別を「被差別の側」の問題としてではなく、「差別する側」の問題として学習を展開する必要がありますと、今後の差別解消に向けた課題を提起していただきました。
参加者は484人
